勝手に考察ブログ。

個人的に気になったことを勝手に考察していこうと思います。。

【ネタバレ注意】週一ペースで映画館に通う女が「窮鼠はチーズの夢を見る」を考える

お久しぶりです。

 

大倉くん主演の「窮鼠チーズの夢を見る」🧀

やっと!公開されましたね笑✨

 

私、週一くらいのペースに映画館に行く

いわゆる映画好きなんですけど(若干盛ってる)

 

実はこの手の作品が私の大好物でして。

 

ちょうど1年くらい前から公開されたら

絶対更新しようと密かに温めてた

「窮鼠はチーズの夢を見る」の考察をしていこうと思います!

 

 

⚠️⚠️⚠️ここからネタバレ注意です⚠️⚠️⚠️

 

 

超個人的な感想

 

この作品、ジャニーズの出演作品としては異例中の異例である

R15」と「BL」のダブルパンチでターゲット層が狭いのかなと思っていたんですが、

 

静かで淡々としているけど、テンポがいい

かなり大衆向けなストーリーで

原作をもう何度も何度も読み返していた私でも

1回目の鑑賞では

この後どうなるの??と思わせてくれるストーリー展開でした。

 

私がこの作品を観て真っ先に思い浮かべたのが

アデル、ブルーは熱い色」。

 

2014年に公開されたフランス映画で

カンヌ国際映画祭にて主演女優2人がパルム・ドールを受賞したことで話題になった作品です。

 

この作品は女性同士のラブストーリーなんですが、

映像の雰囲気や演出に近しいものを感じました。

 

例えば「アデル〜」は最後、主人公が1人になって終わるのですが、

 

「窮鼠〜」もわざわざ原作と変えた1人エンドになってますし(おすし)

 

「窮鼠〜」では原作になかったゲイバーのシーンも

 

「アデル〜」では2人が初めて言葉を交わす大事なシーンがレズバーだったりと

何かと通ずるものがあるように思えます。

(窮鼠で濡れ場耐性ついた方は是非観てみてください★)

 

「アデル〜」も10分間にも及ぶ写実的なセックスシーン話題を呼んでいましたが、

 

私は2人の会話劇こそがこの作品の真髄だと思ってて、

 

物語とは直接関係のない、

2人の他愛のない会話が彼女達の恋愛を描いているとしたら、

 

「窮鼠〜」は2人の間に流れる”沈黙”が

彼らの恋愛模様を表しているんじゃないのかな〜と思います。

 

一つだけ残念な点を挙げるとしたら、

行定監督が「この画を撮りたい!」っていうのがあったように

私にも「このシーンが観たい!」っていうのがあったので、

そういったシーンが結構削られていたことですかね💧(小声)

 

2人の演技については、

今ヶ瀬は成田くんの演技力や器用さにはもうひれ伏せざるを得ないです!って感じでしたが、

原作と比べるとちょっと成田節が強い、可愛い今ヶ瀬だったのかなと思いました(笑)

 

その点、公開前に散々

「恭一にしては色気がありすぎる!イケメンすぎる!!」と言われていた(笑)

大倉くんの方が意外と原作の恭一に忠実だったように思えました。

 

特に「お前、煙草臭い…」とか

「キスだけって言っただろ…」とか

泥酔して今ヶ瀬に抱きかかえられる場面とか

原作の恭一を思い出して「ううぉ…」ってなってました😂

 

 

ただ、全体を通して、

原作が主人公の心情の変化や葛藤がメインで描かれていたのに対し、

映画では2人の心情や葛藤の描かれ方が極端に少なく、

なんか淡々と進んでいっているように感じました。

 

まぁ確かに漫画と同じような心情の描き方をしてしまうと

実写ではどうしてもおかしくなってしまうのですが、

 

それでも割と静かだったなぁと感じました(笑)

 

でもこれは制作側をミスではなく、

よくある手法だと思ってて、

 

要はあえて分かりにくくすることで

「どちらかに肩入れせず、客観的に見て欲しい」とか

「観た側が多種多様な解釈で楽しんで欲しい(映画好きはこういうの考えるの大好き)

みたいな思いが込められているんじゃないかなと思います。

 

それを踏まえた上で2回目の鑑賞をした時に

2人の行動に心情の変化が見えたので

それを書き留めておこうと思います。

 

ただ、内容に関してはうろ覚えの部分もあるので

時系列間違ってたらすみません💦

 

 

恭一の心情の変化

 

まず、原作と比べて、映画の方では

恭一が今ヶ瀬をすんなり受け入れているように感じました。

 

原作では身体の方は受け入れておきながら

心は最後までウジウジ悩んだ果てに腹を括っていましたが、

 

映画では、心の方が先に受け入れていたんじゃないかと思います。

 

いったいそれがいつからなのかというと、

今ヶ瀬が恭一の家に引越し祝いの名目で転がりこんできた時になります。

 

また、恭一の心情の変化を読み解くカギを握るのが

恭一を取り巻く女性達です。

 

今ヶ瀬と出会う前に恭一と関係を持っていたのは

妻の知佳子浮気相手の瑠璃子の2人。

 

恭一は知佳子からは体を拒まれていることが

シャワー室でのシーンから分かります。

 

ですが、恭一は知佳子について「信じていたから」「大切にしたいんだ」と言っていたことから

恭一は知佳子と体の関係はなくても、

心は通じ合っているものだと思い込んでいます。

 

浮気相手の瑠璃子とは

妻に受け入れてもらえない体の寂しさを埋めるために関係を持っていたのでしょう。

 

それが、信じていた知佳子からいきなり別れを告げられ、

ぽっかり空いてしまった心に今ヶ瀬がタイミングよく来たことで

思わず心を許してしまいます。

 

それは同窓会のエピソードからも伺えます。

 

原作では恭一は高校の同窓会に行き、

当時好きだった女性と関係を持つハズなのですが、

 

映画では恭一は同窓会に行きません。

 

このシーンからも既に今ヶ瀬によって

恭一の心が満たされていることが分かります。

 

しかし、まだこの地点では

恭一は今ヶ瀬に掘られてないですし(おすし)、

浮気相手とも切れていません。

 

恭一が今ヶ瀬に体を許したのは

タイ料理屋でなつきと今ヶ瀬、

どちらを選ぶのかを迫られた修羅場の夜になります。

(余談だけど、タイ料理屋なのはタイがBL大国だからなのかな?ちなみに私の韓国の推しがタイ人の子なんだけど普通にBL観るらしいから窮鼠も見て欲しいな…💕)

 

この時、恭一はなつきを選びますが、

セリフは原作とほぼ同じなのに対して

2人の表情が原作とは違っています。

 

「俺は、お前を選ぶわけにはいかないよ。普通の男には無理だって。分かるよな?」

 

原作では恭一は目を泳がせながら言い、

今ヶ瀬も目を合わせずに「分はわきまえているつもりです。」と答える。

 

ですが、映画では、

恭一は今ヶ瀬の目に訴えかけるように言い、

今ヶ瀬も恭一の目を見ると、不敵な笑みを浮かべ

「はい」と答えます。

 

結果的に恭一はなつきと寝ることを拒んだことから考えても

もしやこの時の2人はグルだったんじゃないかとさえ思うのです。

 

では何故、恭一は今ヶ瀬に体を許したのかというと、

浮気相手の態度にあると考えます。

 

そもそも瑠璃子は恭一が結婚していても構わないと言って関係を持ち、

恭一が離婚したと知った後も、「私のせいなんじゃないか」と心配し、

嬉しがったり、自分が恭一と結婚しようしたり、といった素振りは見せません。

 

つまり、彼女は端から恭一の心を求めていたのではありません。

 

なので、心も体も求めてくれる今ヶ瀬が出現したことによって

自分の体を埋めてくれる女性たちは必要なくなったのです。

 

今ヶ瀬以外で浮気相手だけガッツリベッドシーンがあったのは

彼女にこれらを表現する役割があったからなのではと思います。

 

恭一のキャッチコピーである「流され侍」ですが、

 

私は映画の中の恭一はただの”流され侍”なのではなく、

とてつもなく寂しがり屋で、

自分の全てを求めてくれる人が欲しくて、

寂しさを感じると誰彼構わず関係を結んでしまう

素直で、寂しい人なのかなぁと思います。

 

 

窮鼠はどっちだったのか

 

次に注目したいのが2人の恋愛におけるイニシアチブ(主導権)の変化です。

 

劇中ではなつきは恭一を”ネズミ”と表現し、

確かに序盤は今ヶ瀬の計画的犯行によって

恭一を追い込んでいるように思えます。

 

ですが、

誕生日にサプライズをされたり、

「貴方の煙草になりたかったんです」と言う今ヶ瀬に微笑みながら

「馬鹿だねぇ、お前は。」と頬を撫でたり…と

 

今ヶ瀬の気持ちに応え始めた恭一に

 

それまで散々嫌がられても、拒まれても

冷静で余裕な素振りを見せていた今ヶ瀬も心を許し始め、

 

後半からどんどん形成が逆転していきます。

 

 

心を通わせ合い幸せな日々を過ごす2人ですが、

 

恭一の部下・たまきの登場によって

 

恋愛にのめり込み、後戻りが出来ない今ヶ瀬は

嫉妬で壊れていきます。

 

そして恭一がたまきの父の葬式で着た喪服にファンデーションがついているという一件から

遂に別れ話に発展します。

 

「貴方じゃ駄目だ。」と言う今ヶ瀬に

 

「お前がそう言うのなら駄目なんだろう。終わりにしよう。」と受け入れる恭一。

 

この時にはもうイニシアチブは完全に逆転しています。

 

恭一も流され侍の異名通りの受け入れっぷりですが、(笑)

 

後にたまきに語った

 

「あいつは苦しそうだったから。俺は幸せだったけど。」

 

が真理でしょう。

 

「寂しさをすぐ誰かで埋めようとフラフラする危なかっかしい俺が、究極に嫉妬深いお前を苦しめている」のだと。

 

”一人じゃ生きられない恭一”と”一緒にいればいる程苦しくなっていく今ヶ瀬”

 

2人が幸せになる道はないのだと悟ったのです。

 

 

そして2人が別れて時が経ち、

恭一は今ヶ瀬の穴を埋める為に

またも何となくで結婚しようとします。

 

そんな恭一の前に再び現れ、

「結婚も邪魔しないし、体の関係もいらないから、会って欲しい。」

と懇願する今ヶ瀬。

 

恭一は「お前はもう要らない。」と冷たく突き放しますが、

 

その後すぐに、ヨリを戻すことを考えると

 

「心も体もない、俺を求めてくれないお前なんか要らない」

 

という意味にも聞こえます。

 

そしてたまきが出ていった部屋ですぐさま愛し合う2人。

 

恭一がタチになってることからもイニシアチブは恭一にあることが分かります。

 

遂に流され侍・恭一は腹を括って「一緒になろう」と伝えますが、

 

翌朝、目が覚めると今ヶ瀬の姿はそこにはなくなっていました。

 

恭一が自分の元にいるとその反動で

嫉妬で自分を保てなくなるからでしょう。

 

ですが、恭一が最後にとった選択は

”一人になる”ことでした。

 

最後の最後で”一人じゃ生きられない”恭一は

自ら窮鼠となったのです。

 

タイトル通り

2人(窮鼠)は一緒になる幸せ(チーズ)を夢見て幕を閉じます。

 

原作とは違うラストだったのですが、

私は寧ろこっち(映画)の方が希望があるように思えます。

 

原作はヨリを戻しますが、

「もう3度目はない」とか「この恋の死を見届ける」とか

結構マイナスな表現で終わっていて

またそれが切なさを掻き立てているのですが、

 

映画では切ない結末ですが、

 

恭一を思い出して泣くアイツ(今ヶ瀬)は絶対戻ってきますし(笑)

 

恭一も独りで待つことができるのなら

 

2人はもしかしたら幸せになれるのかもしれない。

そう思います。

 

 

海辺のシーン

 

この映画のクライマックスとも呼べるのが

2人が海辺で別れの挨拶をするシーンですが、

 

原作にもあったシーンですが、

セリフが原作とは違っています。

 

原作では、海を見ながら今ヶ瀬は恭一の好きだったところや感謝の気持ちを伝えます。

 

ですが映画では、このシーンどころか、

全編を通しても今ヶ瀬は恭一の何処が好きなのかという話をしていません。

 

替わりに

 

「貴方みたいな人間、大嫌いなんですよ。」

「でも、心底惚れるって全てにおいてその人だけが例外になっちゃうってことなんですね。」

 

と言います。

 

この「好き」を「嫌い」で表現しているところが私は好きです。

 

ー僕は貴方みたいな人が嫌いだし、分かり合えないけど、貴方だけは例外で好きなんだー

 

これは恭一も今ヶ瀬に対して思っているのではないかと思います。

 

そう思うと2人はかなり危ない関係で、

 

たまきのセリフに

 

「好きになりすぎると自分の形が保てなくなって壊れてしまうんです」

 

とあったように

 

2人は「恋」とか「愛」を超えて共依存の関係だったのではと思います。

 

でもその”美しくて悲しい関係”がまた切なくてエモいんですよね。

 

 

最後に

 

こうして「窮鼠はチーズの夢を見る」を考えていく中で、

 

気づいたら「BL」や「同性愛」という枠を越えた話になっていましたね。

 

恭一の葛藤が薄かったり、結婚の扱いが割と軽かったり、という点から見ても

 

原作が連載された当初と

時代が変わってきたのかなぁと思います。

 

今年は「his」から始まり、アニメも実写も

BL映画の公開ラッシュが続き、

何か節目の年のような気がします。

 

この作品も漫画として世に送り出されてから

16年が経った今だからこそ、

 

男性同士”というシチュエーションで

恋愛そのもの”の難しさを描き、

 

観る側もそれを受け取ることができる

作品となったのかなと思います。

 

長くなってしまいましたが、

読んでくださりありがとうございました!